『わが植物領』西川徹郎句集

・裏の木が舌をべろりと出している
・腸出した儘松の木立っている
・赤ん坊を逆さまにして落ち葉掃く
・ガラス器の胎児を映す冬茜
・死児を抱えた桔梗が辻に夕まぐれ
・辻で別れた姉が紅葉となっている
・梢のように姉を紅葉の寺で折る
・きのうから木槿の影を食べている
・手毬唄手毬も時々歯を見せて
・くちなわで括られ死後の自転車は
・三枚の舌がそれぞれの井戸を掘る
・老人に拝まれる死んだふりして桃は
・雑巾ノヨウナ舌ガ路上ニ落チテイル
・舌出シテショウレイ蜻蛉飛ンデユク
・舌ガ枯木ニ引ッ掛カッテイル秋ダ
『縄文地帯』岸本マチ子句集

・まばたきに命を賭ける鮫もいて
・鍵を置く音して八月去りゆくか
・みがきあげ黒潮となる一月の闇
・夏蓬どこにも出口みあたらぬ
・盆迎え鱗はげしくこぼしおり
・絶壁のごとく軍鶏いる八月尽
・河馬という暗黒のぞく四月尽
・火を焚いて睦月のしっぽなぜている
・折れ曲る釘のごとくに秋の川
・慟哭がたまるといつか石の匂い
・こころざしもげんのしょうこも救急車
・柩という不思議な秋を見据えたり
・歯をたてると母ころげ出る白菜漬
・立春の火のつき易き人体図
・ぐちゃぐちゃと蛸噛み居れば仏法僧

*『わが植物領』は西川徹郎の第10句集。1999年10月、沖積舎刊。2800円。作者は1947年生まれ。北海道芦別市に住み、書肆茜屋を主宰、「銀河系通信」などを出す。西本願寺派の僧。

*『縄文地帯』は岸本マチ子の第5句集。1999年9月、本阿弥書店刊。2900円。作者は1934年生まれ。沖縄で「WA」を発行。エッセイ集に『海の旅−篠原鳳作の遠景』がある。

西川徹郎は北海道芦別市、岸本マチ子は沖縄県那覇市に住む。二人とも住んでいる位置にこだわっており、いわば辺境から中央を撃とうとしている。
徹郎は、自分の俳句は「私は誰か」を問う実存俳句だ、と述べている(句集の後記)。誰の俳句だってなんらかの意味で実存的だから、普通はことさらに実存俳句ということを主張しない。それを敢えてするところが、北の辺境を意識する徹郎だ。
もっとも、彼が実存を強調すればするだけ、その俳句はホラーになるように見える。中央に鋭く対立する辺境の意識が、イメージを激しく変形・歪曲させるらしい。

手毬唄手毬も時々歯を見せて

手毬をついている子どもたちは時々、歯を見せて笑ったりする。つかれている手毬も時々歯を見せて笑ったり、子どもの手にかみついたりする。遊びのはらむ危機的な雰囲気をよくイメージ化したホラー俳句だ。徹郎の俳句は、実存俳句という堅い言い方をするよりも、現代のホラー俳句と呼ぶ方がよい。
マチ子のイメージもホラーに近い。まばたきに命を賭ける鮫、出口の無い蓬の原っぱ、そして、白菜漬からころがり出る母などはホラーそのものだ。自分を、あるいは生きることの意味を、まじめに問えば問うほど、このような怪奇なイメージを引き寄せるのであろう。コンピューター、遺伝子、原子力のような目に見えないものが跋扈する現代は、実存そのものがなんらかの意味でホラー的。ホラー俳句は時代の根っこに交差している。
もっとも、マチ子の俳句では次のようなさりげないイメージの作が好ましい。

鍵を置く音して八月去りゆくか

八月という季節への共感が「鍵を置く音して」という素敵な譬えになっている。もしかしたら、自分にだけ向かうとホラーになり、自分を他のものに開いてゆくと、単なるホラーではないイメージは生まれるのかも。

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